名前が読めなければ、人の存在がぼんやりしてくる
日本語の文章の中で一番読みにくいのはやはり、人の名前だよね。わたしは、今に至るまで、どう読めばいいか迷っている。「魯魚章草」(ろぎょしょうそう)という難読熟語は読めるのに(似ている文字を書き間違えるという意味(笑))、「福沢諭吉」(ふくざわゆきち)という重要人物の名前は読めない。ちなみに、慶応大学に留学したことがある。なさけない。
ぼんやりとした文章
文章の中で人の名前が出ると、
カナモジ専用論を唱えた人としては、さきにふれた新井白石や、賀茂真淵、前島密、福沢諭吉などがあるが、運動団体としては1983年(明治16年)に、大槻文彦、三宅米吉、肥田浜五郎、小西信八らの努力でできた「かなのくわい」が最初のものであった。
わたしにはこのように見える。
カナモジ専用論を唱えた人としては、さきにふれた〇〇〇〇や、〇〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇〇などがあるが、運動団体としては1983年(明治16年)に、〇〇〇〇、〇〇〇〇、〇〇〇〇〇、〇〇〇〇らの努力でできた「かなのくわい」が最初のものであった。
各文字は確かに読めるが、それらをつなげた名前は読めない。文章の中で現れる人はみな、「〇〇」(まるまる)となっている。
名前が読めなければ、その人の存在がぼんやりしてくる。読んだ名前は覚えられないし、聞いた名前と照らし合わせることができない。読んだ世界と聞いた世界がばらばらになってしまう。名前を読んだことがある人に、実際に会ったり文中で出くわしたりすると、「あ、久しぶりに会ったな」という気持ちにはならない。毎回が初対面のようだ。社会に貢献した人の名前がピンとこなくて、その人の功績がまともに評価できない。まるでドイツ語の慣用句のように、人の名前は左の耳に入っては、すぐに右の耳から出る。 (ちゃんと日本語の慣用句でもあって、うれしい。)
ぼんやりの原因
なぜ人の名前は読めないのだろうか。
漢字の読み方には音読みがある。これはある程度のルールがあって、種類が少なくて、なんとなく覚えやすい。訓読みもある。これは文字の形とその読み方がまったく無関係で、文字の読み方を一つ一つ覚えるしかない。実際に使われる訓読みの種類はそんなに多くないため、がんばれば覚えられるものだ。
しかし、訓読みがラスボスと思うやいなや、名乗り読みの裏ボスが登場する。人の名乗りは自由で、同じく名前の文字のつき方も自由。子供に珍しい名前を与えるのが面白いとされているように、その名前を珍しい漢字で書くのがワクワクする。そのため、同じ読み方の名前にいくつかの書き方があり、同じ書き方にいくつかの読み方がある。種類が多すぎて、覚えきれない。
はっきりとした文章
人の名前をカナで書くと、読み方に苦しむことなく文章が味わえる。
カナモジ専用論を唱えた人としては、さきにふれたアライ・ハクセキや、カモノ・マブチ、マエジマ・ヒソカ、フクザワ・ユキチなどがあるが、運動団体としては1983年(明治16年)に、オオツク・フミヒコ、ミヤケ・ヨネキチ、ヒダ・ハマゴロウ、コニシ・ノブハチらの努力でできた「かなのくわい」が最初のものであった。
各名前は印象的で、覚えやすい。読んだ名前と、前に聞いた名前を照らし合わせることで、情報がつなげて、その人の存在がはっきりしてくる。読み手も書き手も苦労しないで、述べた人も損はしない。なぜなら、カナの各文字に意味がなくても、カナをつないだ文字に意味があって、名前の味わいがカナの上でも伝わる。